見附から吉ヶ平へ


 見附を離れた継之助一行は杉澤、文納、人面を通り、葎谷に到着しました。ここで全軍合流し、八十里越を通って会津に逃れることを決めました。


 杉沢集落の入口。見附からここまでもフラットな道だが、相変わらず木陰がない。サイクリスト泣かせの道だ。
 文納バス停前にて。道はここから嫌な感じのアップダウンを繰り返す。この路沿いは殆ど商店がないので注意。
 栃尾市の最深部の葎谷集落。隠れ里といった感じだ。継之助たちはここで最終的に会津に行くことを決めた。
 葎谷を抜け、今日最初で最後の峠に向かう。当然この路は幕末当時にはない。下田村の葎谷に直接抜ける山道を通ったのだが、現在その道は廃道になっている。この峠は「水の木峠」というそうです。
 八十里越街道本道に出て吉ヶ平に向かう。道は途中から舗装が切れるが、緩やかな上りで走りやすい。
 吉ヶ平山荘全景。昔の学校を改造したものだ。いかにも「でそう」な雰囲気。
 守門川に架かる橋の手前を北に曲がったところ。この道の左側に、継之助が泊まった家があったという。

 ところで見附から吉ヶ平まで向かう道筋には2つの説がある。上の地図に緑の線で描かれているものがそうだ。人面から大きく北に迂回して、院内を通って八十里越本街道に合流し、吉ヶ平に向かっている。この説は多くの本が採用し、いわゆる「河井本」にはこのルートが描かれていることが多い。

 なぜか。実は「葎谷」という地名が栃尾市と下田村に2つ存在する事からこの混乱は生じている。バイブルである「河井継之助傳」にはどちらの葎谷を通ったかとは描かれていない。全ては歴史学者の推測である。

 多くの学者が支持する院内迂回説は、下田村の葎谷を通り、栃尾の葎谷は通らなかったことになっている。しかしこれはおかしい。重傷の継之助が院内まで何キロも迂回しなければならない理由が全く見あたらないのである。

 栃尾市史によれば、継之助をはじめ長岡郡の全軍が葎谷に集結し、ここで会津へ逃れることを決めた、とある。つまり継之助は最初、全面的な撤退を考えてはおらず、あくまでも体制を立て直し、反撃しようとしていた。とすれば、山を背にした栃尾の葎谷は本陣には絶好な地形であり、継之助はここを目指し、ここを通ったのは間違いないと思われる。

 両方の葎谷に寄ってみたが、下田村の葎谷は開放的なイメージがあり、史実に描かれた葎谷とは違う感じがした。また、以上のことは栃尾市役所の社会教育課より裏をとりました。


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