初 秋・・・・十三峠街道

(川西町〜飯豊町〜小国町〜新潟県関川村)


 「十三峠街道」。米沢から新発田(新潟県)へ通じる越後街道の俗称であり、伊達氏が大永元年(1521)に開削したと伝えられている。人馬・文物の往来の多い米沢藩の主要街道で、明治17年(1884)に新道が開通するまでの350年余りの間、越後への本街道として賑わった。十三峠街道といっても別に「十三峠」という名前の峠が存在する訳ではなく、越後に出るまでの間に、街道上に13の峠・難所があったのでこの名前が付いたという。その峠とは、米沢側から諏訪峠、宇津峠、大久保峠、才の頭峠、桜峠、黒沢峠、貝之淵、高鼻峠、朴ノ木峠、萱野峠、大里峠、そして新潟県に入って榎峠、鷹ノ巣の13である。
 たまたま手に入れた本からこの街道の存在を知り、興味を持った私は、色々な文献を見て当時の道を調べた。その中で、榎峠と鷹ノ巣は新潟県にはいるので今回は除外し、山形県内の11の峠だけを対象にした。その結果を5万分の1の地形図の上に書き記していくと、まだ現役バリバリの峠、すでに廃道となった峠、散策路として整備された峠等と、十三峠の末路は様々であり、ぜひとも自転車でその峠の全てを見て、辿って、越えてみたいと思った。

 当日はさすがに気合いが入った。朝3時起床の4時出発である。夜明け前の国道13号線をひた走り(自動車で)、まだ暗い米沢に5時に着いた。十三峠街道の本当の起点は、現在の大町にあった札の辻というところなのだが、わかりにくいため、米沢城趾を起点とすることにした。すぐ側にある上杉神社に今回のツーリングの成功を祈願して、再び車に乗りこみ、十三峠の最初の諏訪峠を目指す。国道287号線を上小松まで走り、県道に入り、峠の入口の工事現場で車をデポした頃、ようやく空も白んできた。
 峠の麓には諏訪神社がある。山形県以北の地方では最も古いものだという。江戸時代の人々は、越後へ行く最初の難関である諏訪峠に上る前に、ここで道中の安全を祈願したのだろう。私もまた同じように手を合わせた。
 まだエンジンが冷えている身体を少しづつ暖めるために、ギアをめいっぱい落として、いつもより少し早いピッチで上り始める。近くにゴルフ場ができた為だろうか、道は全舗装で、幅もかなり広く、走りやすい。鳥の囀りや、朝の冷たい空気がなんとも心地好く、いい気分のままあっというまに峠に着いた。峠からの景色は素晴らしかった。緩やかな緑のスロープ越しに、置賜の盆地が朝日に包まれて輝いていた。この辺一帯を眺山と呼ぶのもなるほどと思う。いつまでも眺めていたい風景であった。当時の人々もここで今までと違う景色を見て、気を引き締めたことだろう。
 デポ地に戻り、自転車を車の上に乗せ、次の目的地である宇津峠に向かう。

 宇津峠は十三峠中最大の難所であったという。峠が急であること。特に東側が急で、距離が長かった。現在では峠の下にトンネルが通っているのだが、米沢側から行くとトンネルの手前で急カーブが連続し、その勾配も20%以上はあろうかと思われる程の大変なものである。乗用車ならば、そうたいしたことはないのだが、ひと度トラックなどの大型車に前を走られるとたちまち都心並みの大渋滞になってしまう。トラックではきつすぎる程の坂なのである。現在でさえこうなのだから、当時の人々の苦労が偲ばれる。
 余談になるが、現在の宇津トンネルはかなり前に建設されたせいもあるが、世間一般のトンネルと比べて円が非常に浅くできている。その結果、トラックやバスなどの大型車はセンターラインを越えて通行しており、非常に危険である。したがって大型車同士の交差も困難であり、その度に渋滞になっている。注意してみると、大型車のつけた引っかき傷がトンネルの側面のあちこちにある。自転車でこのトンネルを通る事は自殺行為である。止めておいた方がいい。
 その急勾配の東側から上りたかったのだが、道が見つからなかった為、トンネルを越えて西側から上ることにした。駐車帯に車を置き、走り始める。
 旧道は未舗装ながら良く整備されていた。山の頂上に無線中継所がある為、現在でも使われているせいであろう。東側と違って西側は勾配も緩やかである。その分走りやすくて良いのだが、「街道中最大の難所である宇津峠を今攻めているんだ!」という気がぜんぜんせず、少々物足りない。
 峠路はまだ紅葉には程遠いが、両側からススキが道いっぱいに張り出していて秋の始まりを感じさせてくれる。左腕にススキを優しく撫でらせながらのんびりとペダルを回して行くと、急に道幅が狭くなった。尚もずんずんと進んで行くと、今度は大きな看板が見えてきた。そこには「これから先はNTTの私道であり、1キロ先には無線中継所があるので、これ以上立ち入らないでください。」と書かれてあった。  さて、困った。でかい看板にここまで丁寧に書かれたのでは、無理やり入って咎められたときに、知りませんでしたでは済まされない。かといってここまで上ってきて引き返すのも馬鹿らしい。しばし考えこむ。少し落ち着いて、林道の行方をよく見てみる。確かに目の前にパラボラアンテナが見え、道は一直線にそこへ向かっている。しかしアンテナがある場所は山の頂上であり、どう見ても峠の雰囲気ではない。尾根線をずっと目で追ってみると・・。なんだ、ここが峠の鞍部じゃないか!さらによく見てみると、看板の手前から道らしきものが山側に延びている。もしやと思い、入ってみる。
 辺り一面に背の高い草がぼうぼうに生えているが、これは確かに道である。それも結構広い道だったようだ。まず間違いないな、と思い、しばらく藪こぎをして行くと、目に青い標識が飛びこんできた。そこが峠であった。廃道となり、峠としての役目を終え、もう誰も通る人もいなくなった宇津峠。あの文字の消えてしまった青い案内標識には、一体なんて書かれてあったのだろうか。小国側から上ったので「飯豊町」であろうか。それとも「宇津峠」であろうか。この道はたぶん明治時代以降に新しく作られたものだと思うが、それでも当時の人達はこの標識を見て「やれやれ、きつかったな。」と安堵したに違いない。感慨もひとしおである。
 東側の道を通って下りたかったのだが、そうするとデポ地に戻るためには例のトンネルを通らねばならない。人一倍トンネル恐怖症の私としては前述した通りの状況である宇津トンネルを通る気はさらさらない。来た道を引き返すことにする。

 再び車に乗りこみ、西に向かって進む。するとすぐに遅越トンネルが見えてくる。トンネル開通以前にはその上に道が通っていて、大久保峠と呼ばれていた。十三峠の一つに数えられている。しかし、廃道になったうえに新しく植林され、道など跡形もないという。これに比べれば宇津峠などはまだいい方か・・。

 さらに車を西に走らせ、米坂線の羽前沼沢駅に車をデポした。余程自転車をルーフにのっっけた車が珍しいのか、デポした時に駅前の家から人が7〜8人出てきてこちらを見ている。面食らったが平静を装い、すばやく自転車を組み上げる。(実は動揺して小ネジを5、6回落としてしまった。)これから先は峠が連続するために、自転車だけで進むことになる。気を引き締めて4番目の目的地である才の頭峠に向かう。
 沼沢の交差点で国道113号線から離れ、県道にはいる。辺りは田園風景となり、顔に当たる風がなんともいい気持ちである。ところが行けども行けども峠が見えない。ここから峠だ、という感じも全然無い。一本道だから道を間違えるはずもないのに変だな、と思い、近くで農作業をしていたおじさんに聞いてみた。「すいません、才の頭峠というところがこの辺にあると聞いたのですが・・」「ああ、それだったらあの家の裏だ。」意表を突いた答えであった。「あの家の裏の道を上っていくんだ。」とか「あの山の向こうだ。」とかだったら話がわかるのだが・・。言われた通りにその家の裏に行ってみたら、そこは単なる坂であった。狐につままれたような思いで、「その家」の人に尋ねてみる。「すいません、この辺に才の頭峠というところがあると聞いたのですが・・」「ここだよ。」短いが簡潔な答えであった。峠の全長は家5軒分。登り口からの標高は約2メートル弱。しかも周りは田圃が広がっている。いくら重機で峠の高いところを削ったからといったってこの地形のどこが難所なのだろう。どうも釈然としないまま、「峠」を後にした。

 しばらく走ると白子沢の集落に着く。越後街道には山形側に、上小松、松原、手の子、沼沢、白子沢、市野々、黒沢、小国、玉川の9ヶ所に宿駅が置かれた。そのうち松原と黒沢を除く7ヶ所には伝馬が常備され、高札所もあって、賑わったという。宇津峠を越えて小国郷に入った後では、白子沢の宿は小国に次ぐ大きな規模であり、今回走った9ヶ所の「元」宿駅のうち、一番宿場町の雰囲気を残しているところだと思う。旅情満点である。集落の中にある白子神社も歴史が古く、一見の価値ありということだが、今回は先を急いだ。
 沢中、桜、とこれまた雰囲気のいい集落を通り、道は勾配を増してきた。いよいよ十三峠5番目の桜峠の上りにさしかかったのである。カーブを曲がる度に高度を少しずつ稼いでいく。下を見ると、まだ刈り取られていない稲が黄金の波のように揺れている。その中を通っている一本の路は大平峠に向かう路である。これまた感じが良さそうで、今度ぜひとも訪れてみたいと思う。道幅は車がやっと行き違うことができる程度なのだが、全舗装で対向車もめったにこなくて走りやすい。ススキが優しく風に揺れている。赤とんぼが恋人と楽しそうにデートしている。思わず笑みがこぼれてきそうなのどかな光景である。何度目かのカーブを曲がって峠に着いた。
 桜峠は浅い切り通しになっており、乗っ越し型の峠らしい峠であった。また、白子神社のお札が供えられてあり、ここを通る人達の安全を見守っていた。こういうものを見ると本当に嬉しくなってしまう。つい居心地がよくなって10分くらいボーッとしていた様に思う。これから下る市野々側を覗いてみる。白子沢側の山深い感じとは対照的に、こちら側は明るく、開放的な感じがする。次なる土地に期待をかけて、エイヤッ、と急勾配の峠路を下っていった。

 市野々の集落は「だだっ広い」という感じを受けた。田圃がかなり広範囲にわたってあるのだが、そのわりには家の数が少ないような感じを受けるのだ。ここも元宿駅なのだが、その面影はもうかなり薄れてしまったようだ。桜峠から下ってきて、最初の大きなT字路を右に曲がる。まっすぐ走り、2本目の橋のたもとを左に曲がると、そこが十三峠の6番目である黒沢峠の入口である。林道を200メートルほど走ると行き止まりになり、その左側に山道が延びている。舗装道から林道への入口にも、山道への入口にも案内標識が出ているので迷うことはない。
 路はいきなり急斜面で、自転車を担ぎ上げて登って行く。押し担ぎの峠越えは久しぶりだ。去年の甑峠以来1年振りである。あの時はバテバテになってしまったが、今回は頑張るぞ!
 5分くらい担ぎ上げた後は勾配も緩やかになり、自転車を肩から下ろして押して行く。路はよく整備されてあり、草もちゃんと払われている。乗って行ける場所も所々あるくらいだ。また、登り口から峠まで、一合目、二合目・・、と書かれた杭がたっており、自分がどこまで上ってきたのかわかるようになっている。「黒沢峠保存会」の人達の手によるものである。先人たちが切り開いた歴史ある峠路を、組織だって永く保存していこうという姿勢は立派であると思う。この動きが全国的に広がっていって欲しいものだ。
 枯れ葉で敷き詰められた路を気持ちよく登って行くと、五合目付近から石畳が顔を見せ始めた。しばらく途切れた後、七合目辺りから再び現れ、峠までずっと続いている。実はこの黒沢峠は「敷石路の峠」として知られており、分県地図などにも名所のマークと共に「敷石道」と書かれている。この峠の石畳が江戸時代そのままの形で残されている、ということは前々から聞いていたが、この目で見るまでは信用できなかったし、もし本当ならばぜひ見てみたい、と思っていた。
 峠は雨が降ると、水が路を川のように流れる。そして歩くことを不自由にする。背負い子や馬方の労苦は並大抵のことではなかっただろう。ならばいっそ思い切って石畳の路にしてしまおう、ということになったのだと思うが、いつ、どうして作られたかという記録は見あたらないという。さいわい道筋に石切り場があったのでそれを利用したのだろうが、それにしてもこんな山の上に、長さ1.5メートル、幅50センチもある石を敷き詰めるとは余程の難事業だったことだろう。「昔の人は偉かった」といつも口癖のようにいっていた中学時代の先生のことをふと思い出した。
 余談になるが、市野々側の石畳が所々なくなっているのは、明治末から大正にかけて炭焼きが盛んだった頃、人々が石畳の石をとって炭焼き釜に据えてしまったということである。石を敷き詰めた人達もすごいが、それを持っていってしまった人達もすごい。昔の人達のパワーを感じる話しである。
 歴史を感じながら自分の足で石畳の上を歩き、自転車は脇の土の部分を転がして進む。ガントレが石畳の上に生えている苔でつるつる滑って何度もコケそうになるのには参るが、江戸情緒満点のこの路にすべて許してしまう。三度笠と草鞋も持ってくれば良かった、と真剣に思ってしまった。
 峠は広場のようになっており、簡単な木のベンチと峠の碑があった。その二つの間を敷石路が通っている。木のベンチにどかっと腰を下ろして、ボトルの水で喉を潤す。青い空と白い雲。そして数百年前から残っている石畳。ボーッと座っていると、自分が江戸時代にタイムスリップしてしまったような錯覚をしてしまう。もし今、目の前にちょんまげの武士や飛脚、背負い子が通りすぎたとしても、全くそのまま自分は受け入れてしまうだろう。本当にいい峠だ。来て良かったとしみじみ思った。
 峠を下る。といっても乗れないので押して行く。黒沢側の敷石道は、市野々側と比べて登り口までほぼ完全な形で残っており、途中小国の街が一望できるところもあり、実に見事である。つるつるの石段を一歩一歩注意して踏みしめながら下って行くと、大きな駐車場にたどり着く。ここからは舗装路なので、一気に黒沢の集落へ下って行く。

 黒沢の集落を通りすぎて行くと貝之淵というところがある。十三峠の7番目に数えられているが、川渡しの難所であって、世間一般にいう「峠」ではない。今ここを通ると河岸段丘で北側は切り立ってはいるが、それほどとは思えない。これも才の頭峠と同じように道路普請によって整備されたからのことであり、江戸時代にはやはり一つの難所だったのであろう。その横に架かっている橋を渡って何の苦もなく国道に出る。

 排気ガスに咳き込み、トラックに怯えながらの国道走りがしばらく続いて、小国に着いた。ここは当時小国郷では最大の宿駅として賑わい、現在でも小国町の中心地である。小国町は大きく粡町と小坂町とに分かれ、粡町は町屋敷で、小坂町は士族町であった。ここに御役屋や御代官所があって藩の支庁的役割を果たし、また大宮子易神社や光岳寺等の名寺があり、小国郷の中核として重視された。しかし粡町、小坂町とも昔の面影はあまり残っていない。これも時の流れというものか・・。
 横川に架かっている橋を渡り、すぐの十字路を左折し、小国小坂町を南に進む。十三峠8番目の高鼻峠の入口だ。この峠を小国の中心部から見てみると、ちょうど烏帽子が風になびいたような形の経塚山の鞍部に当たる。高鼻峠という名前は言いえて妙だと思う。
 舗装された道をゆっくり上って行き「横根キャンプ場」の看板が見えたら右に曲がる。路はますます勾配をまして上へと延びていく。本当はそんなにたいした勾配ではないのだろうが、朝の5時から走りっぱなしなので疲労がたまってきたようだ。それに考えてみたら時々水を飲んだだけで何も食っていない。ペダルを踏む足がどんどん重くなっていく。「ハンガーノック」という言葉が頭をかすめる。ちょっとやばいかな、と感じたが、どうにか峠に着いた。
 実はこの峠は「林道朴ノ木峠線」の一部に組みこまれており、あまり見るべきものはない。ここを境に道が緩くほんの数十メートル下っていることと、小坂町から延びてきた旧道の山道があることで、かろうじてここが峠だと分かるくらいである。早々に峠を後にする。ただし景色だけは良かったことを付け加えておく。

 下りは一部未舗装の部分が残っているが、概ね舗装である。横川の支流である八木沢川に架かっている橋を渡り、道は再び上りとなる。ここからが朴ノ木峠の上りである。しかし私はついにここでダウン。押して登ることにする。舗装峠を押して登るのはあまり記憶に無いことだが、とにかく疲れが限界にきていた。
 こういうときに限って周りの木々は低く、9月にしては強い日ざしを疲れた身体にまともに受けてしまう。しかしその代わり景色はよく見える。後一ヶ月も経つと赤や黄色に化粧直しする山の木々が、最後の緑を誇らしげに見せていた。
 途中横根キャンプ場に立ち寄り、昼飯をかねて大休止する。今日のメニューは食パン一斤に苺ジャム一瓶、そしていつも通りファイヤーガードとシェラカップで沸かすコーヒーである。一通りペロリと食べてようやく腹の虫もおさまり、30分くらい昼寝をした。良く手入れされた芝生がベット。そして鳥の囀りが子守歌。本当に気持ちが良かった。
 結局1時間くらいはそこにいただろうか。気合いを入れ直して再び走り始める。キャンプ場から峠まではもう押すことはなかったが、やっぱりギアを目いっぱいローに落とさなければ乗れなかった。一度疲労の限界を見てしまった身体は、回復するのが非常に困難である。もっと短い休憩をたくさん取ればいいのだが、一気にウワーッと走って後で動けなくなってしまうのが私のいつもの悪い癖。直そう直そうといつも思っているのだが、またやってしまった。反省することしきりである。
 何とかヨタヨタと頑張って走っていると、山をきれいに二つに分けている場所に出る。ここが朴ノ木峠である。峠には小さなかわいらしい祠があり、その中に観音象がある。いかにも昔からの峠らしい。峠からの景色も、周りの木々が低いこともあって素晴らしく、今上ってきた小国の街が箱庭のように全部見える。体調が万全のときに元気よく登りたい峠だったなあ、と思った。
 さて、本来の峠はここなのだが、林道上の峠はもう100メートルほど先に行ったところにある。行ってみると、自然公園なるものを建設中であった。小国町ではこの朴ノ木峠一帯を一大自然公園にする構想があるらしい。先ほどのキャンプ場といい、峠道の途中にも、散策路入口といった立派な看板が幾つもあった。目立った産業があまりない町では、自然を使って観光収入を当て込むことは常套手段であり、別に悪いことだとは思わないが、乱開発だけは引き起こして欲しくないものである。
 今日はここまでとして、きた道を引き返す。後は次回のお楽しみである。

 一週間後、残った二つの峠を攻めるため、勇んで出かける。朴ノ木峠を下ったところにあたる、足野水の集落内の橋の袂に車をデポする。自転車を組み立てていると、近くで農作業していた人が話しかけてきた。「どこまで行くの?」「萱野峠を越えて大里峠まで行きます。」「まず若いねぇ。んだけんども大里峠はともかく萱野峠は無理んねがぁ。ここ数年全然草払ってねし、山菜取りに山さ入って行ったのが、道がねくねってるって戻ってきたっけよ。」萱野峠の路は獣路以下だ、とは聞いていたが、やはりそうか。「駄目だったら引き返してきますよ。」「まず無理しねでな。」おじさんの声援?を受けて走り始める。
 橋を渡り、菱子沢に沿って峠路を登って行く。いきなり、という感じで山道になるが、まだ踏み跡はしっかりしている。勾配は緩く、乗っては無理だが担ぐほどではない。のんびりと押して進む。時々小動物のガサッという音にはっとする。ここ小国は熊がよく出るところとして有名であり、毎年山菜取りの人たちが何人かは犠牲になる。用意しておいたラジオを鳴らしてこちらの存在を知らせながら行く。
 朽ち果てた木橋を越えたあたりから路はどんどん不明瞭になって行く。自転車を置いて道を捜す行為が何度も続いた。急斜面の谷を滑り下り、沢をジャブジャブとわたって急斜面の谷をよじ登る。もはや自転車はただの大きな荷物でしかない。くたくたに疲れ果てた頃には、明らかに峠路ではない、尾根上の鉄塔道に出ていた。どこで道を間違えたのか今となっては分からないし、そんなことを考えている余裕もなかった。ただ峠路には戻れなくてもこの鉄塔道に沿って行けば、最悪でも向こう側の玉川の集落には出られるな、という妙な安堵感があった。
 考えが甘かった。この鉄塔道はもともと旅人のために作られた道ではなく、作業用の道である。したがって山の斜面を登りやすいようにジグザグに道を付けるなどといった気の利いたことはせず、斜面にそのまま道をくっ付けた、という感じの情け容赦のないものである。二つ目のピークに出るための道は、もはや普通に自転車を担いだのでは斜面に当たって進まない為、重量上げのように自転車を高く持ち上げて登らなければならなかった。ピークにたどり着いたときにはもう頭の中が真っ白だった。自転車を放り投げて、自分も寝っ転がる、というよりかは、自転車に押し倒されるようにぶっ倒れた。心臓の鼓動が8ビートを刻んでいる。先を見てみるとまだ鉄塔道は続いており、次のピークもまたきつそうである。自分にこんな趣味のあることと、こんな道を作った東北電力を呪いつつ、大きなため息を一つつく。ふと気がつくと、鉄塔道とは別に下にくだっている狭い道があるのに気がついた。万に一つの望みを賭けてその道をガサガサとくだって行くと、なんとそこが峠であった。
 しばらく歩き回ってみたが、ここが峠であることは間違いないようだ。とにかく早く下りたかったので、写真を撮った後、早々に峠を後にした。玉川側は足野水側と比べて勾配も緩く、歩きやすい。しかし、廃道になって久しいせいだろうか、人間臭さというか、生活の匂いはそこからは全く感じられなかった。ただきつい山道を苦労して登り、峠についてヤレヤレ、と下って行く、そんな感じであった。もっとも情緒を感じているほど体力に余裕がなかったのも事実だが・・。

 萱野峠の終点でもあり、大里峠の起点でもある玉川の集落は、十三峠街道の山形側の最後の宿場であった。しかし街道上の多くの元宿駅と同じように、宿場町といった雰囲気はもう全く消え失せている。しかし、田圃が広がり、山もずっと離れており、道端には美しい花が咲き、太陽が照っている。とても明るいイメージで、いかにも「日本の里」という感じがする。しばらくまどろんで居たくなるような所だ。
 近くの商店に寄り、きれてしまった煙草を調達し、道を尋ねてみる。「すいません。大里峠にはどう行ったらいいのでしょうか?」実は知っているのだが、つい人恋しくて聞いてしまった。「峠かぁ。そいつだったらここば左さ行って、橋ば渡らねで右さむずって・・、」そこまで言うと、店の外に立てかけておいた自転車に気が付いたらしい。「山道だがら自転車じゃあ無理んねがぁ。」にっこり笑って言い返す。「大丈夫でしょう。今自転車でそこの萱野峠を越えてきたところですから。」「あげな所を・・。まず気ぃつけてな。大里峠のほうが路はいいだで安心だけんども。」
 お礼を言って店を出る。と、店の中の話しが聞こえていたのだろうか、小学校3,4年生くらいの男の子が私が出てくるのを待っていた。「ねぇ、大里峠に行くんでしょう。路、教えてあげるよ。」思わぬ親切に、つい嬉しくなってしまう。ほんのちょっとの間だったけれど、この子と二人で並んで走った。「僕もあそこは好きなんだ。この前クラスのみんなで遠足に行ってお弁当食べたよ。」男の子は屈託がない。「へぇー、どんな所なの?」「いい所だよ。あっ、そうだ、天気が良ければ海が見えるよ。」「えっ!」と思わずブレーキをかけた。
 「海の見える峠」。私はこの言葉に非常にロマンを感じる。今までこのような峠を求めて庄内の方まで走りに行ったりした。しかしことごとく期待を裏切られた。最初から最後まで海の見える峠というのは幾つかあったが、私の求めているものは、険しい山の中の路をハアハアいって登り詰め、ヤレヤレと峠に辿り着いた時に、いきなり目の前にブワーッと海が広がっている、そういった峠である。まさかこんな飯豊の山のなかで‘海の見える峠’に出くわすとは思わなかった。十三峠街道のフィナーレを飾る、素晴らしい峠である予感がした。
 「どうもありがとう。」「うん、きをつけてね。」「橋ば渡らねで右さむずって・・」の場所で男の子にお礼をいって別れる。路は最初は舗装だが、すぐに地道になる。道幅が広く、埃っぽい道だ。しばらく走ると「堀川土建」の採石場につくが、そのすぐ手前の左側にある山道にはいる。これが最後だ!気合いを入れて峠路に分けいっていく。

 大里峠にはこんな伝説がある。
 昔、越後の関谷村に、マタタビをいぶしては蛇を取り、三年間味噌に漬けたのを売って生計を立てている男が住んでいた。男の妻お里乃は、縁の下に埋めてある蛇の味噌漬が食べたくて仕方がない。ある日夫の留守中、お里乃はそっと味噌漬を出して焼いて食べた。そのうちに猛烈に喉が渇き始め、近くの川で水を飲んだが、飲めども飲めども乾きは止まらない。ふと気が付いて川の水に映った自分の姿を見ると、蛇になっていた。
 お里乃は里に住めず、山にこもって山の主となった。ある日この峠路を、小国の玉山から一人のめくらの法師がやってきた。いつしか日はとっぷりと暮れ、満月が空にかかっている。法師は寂しさを紛らわすため、背負ってきた琵琶を降ろして弾き始めた。じょうじょうと響く音に誘われて、一人の女が現れて語りかけた。「私はこの山の主の大蛇です。美しい音色を聞かせてくれたお礼に、いいことを教えてあげましょう。」といい、近いうちにこの辺一帯を湖にしてしまう、といった。
 法師は大あわてで村におりてこのことを伝えるとバッタリ死んでしまった。村人たちは大急ぎで鍛冶屋に蛇の嫌いな鉄の杭を沢山作らせ、山肌に一間おきに打ち込んだ。一番の毒である鉄をさされたので大蛇は七日七晩苦しんでいたが、とうとう死んでしまった。死体は山を七回り半巻いていたという。(読売新聞社刊『山形の峠』より)

 この伝説から、お里乃の名を取って大里、また、蛇の尾の状態から尾折と付けられたという訳だ。
 こんな伝説があるからといって大里峠一帯に蛇が群生している、という訳ではない。蛇と鉄と湖の三つを絡めた伝説は、ここ山形のみならず、日本全国にある。これらの関連を調べてみても面白そうだが、民族学の範疇なので今は差し控えておこう。
 さて、峠路はもちろん山道なのであるが、萱野峠と較べて道幅も広く、勾配も緩く、草もちゃんと払われているので登りやすい。担ぎ上げて沢を渡る場所も二、三箇所あるが、後はおおむね押して行ける。乗って登れるところもあるくらいだ。玉川の集落の人たちは、今でも毎年、玉川から峠まで草刈りもすれば祭りも行っているという。黒沢峠と同様に、主要道としての役目を終えた今でも、昔、自分たちの祖先の生命線であったこの峠を愛し、大切に保存していこうという姿勢は素晴らしいと思う。こういった人たちによって手入れされた路は、見ているだけでも気持ちがいいものだ。
 休憩を加えながら40分は登っただろうか。今まで重苦しく感じていた路の両側の木々が急に途切れたと思ったら、カッとまぶしい秋の陽光を全身に浴びた。
 ここが峠であった。自転車を投げ出して新潟側に走り寄る。「海は・・!」残念だった。小国の空は真っ青なのだが、新潟の空は真っ白だった。白く霞んで関川の町が見えた。またか、と思った。まあいいさ、そのうちいつか・・。
 海が見えなかった無念さを除けば、とても明るい感じのいい峠だと思った。峠には大里大明神、観音様、そして二体のお地蔵様が仲良く並んで御堂の中に鎮座している。きっとこの峠が開かれた当初からここにいて、旅人たちを見守っていたのだろう。旅人たちもここを境に越後に、また米沢に入るのだから心の改まる思いがしただろう。そして、ここまで無事にこれたことを感謝し、これから先も無事に旅が続けられるよう祈願したに違いない。私もまた明神様に十三峠街道の完走を報告し、事故のなかったことを感謝して、手を合わせた。
 玉川で買った煙草が全部汗で濡れて、吸えなくなってしまったので、いつもの峠の一服ができず、仕方がないので思いっ切り深呼吸をした。峠の空気がこんなにもおいしいものかと今更ながら思った。大里大明神が、「ここは禁煙だから空気で我慢しなさい。ここでは空気のほうがおいしいよ」といっているような気がした。
 なにもかもが満足だった。こんな素晴らしい街道にいざなってくれた峠の神様に感謝しつつ、もう一度だけ新潟側を振り返ってみた。その時、私の心の目にはたしかに青く輝く日本海が見えた。


目次に戻る